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2011年9月

その存在

かつて、先輩や友だちとして

慕っていた人たち。

何年隔てても、どんなに遠くにいても、

こちらの声に、できる限りの声を返してくれる。

思いがけなかった週末の難題。

仕事だから、といえば、すべてがそれに飲み込まれてしまって、

それがどういうことだったか考えることすら無意味にも思えるけれど、

私一人ではできなかった、私がやらなければならなかったこと。

支えてくれたのはそんな人たちの存在。

ほっとした疲労の中で、感謝尽きない。

韓国のWさん、東京のHさん、どこかわからないOさん。

何だかわからない馬鹿なことだったにしても、

少しは信頼回復に役立つことだったにしても、

そんな存在を、思い出させてくれたこと。

よって、感謝すべきこと。

正当化

昔、クリスチャンの友だちと親しくしていたとき、彼らは私に、聖書は、彼らにとって、日本語で慣用的に使われている意味の「バイブル」そのものだということを感じさせてくれた。
それでも、一人の友だちは、同じクリスチャンでも、宗派や個人の相違について解釈が異なることを、justificationという言葉で私に説明した。

そのときには、私は自分のこととして、それを感じることができなかったが、明文化された聖書を持たないながら、まさしく同じことを自分も日々していると、今日、初めて感じられた。

ここまで人間をしてきて、世の中にはグレーのゾーンがあり、誤りや矛盾も時に通っていることはさすがに承知している。何だかわからず、また間違っていても、もし、それに何かしら意義を見つかられるなら、私は自分の行動を正当化し自分を動かせる。たとえ独りよがりな理由付けでも。反対に、自分の中で意義を見出せないと、言いかえれば、正当化できないと、私はちゃきちゃき自分を動かせず、どんな晴れた空の下でも、どんよりした気持ちで立ち止まってしまうことに今週末は気づかされた。

誰の不幸も願うことなどできないし、自分にできないという自由を今はまだ使うべき時ではないから、明日はそれでも、正当化できない山を前に自分を動かす。どんよりは、ため息に吐いて、私だけの傍に置いて。

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